自分のお墓は変えられるけど、他人のお墓は変えられない

こんにちは。
心理カウンセラー かみきはるです。

「自分のお墓は変えられるけど、他人のお墓は変えられない」

いきなり「なんのことだろう?」というタイトルですが、「へぇ〜〜〜」と思うような面白い出来事がありましたので、ご紹介したいと思います。

「自分は変えられるけど、他人は変えられない」という言葉があります。

そうは言っても、私たちはついつい他人を変えようとしてしまう場面ってありますよね。

「ああして欲しい!」「こうして欲しい!」

相手にあれこれと期待をしてしまうわけです。

自宅の近くに父が眠っているお墓があります。

生前の父は何事もキレイにしていないと気が済まない性分でした。自分で建てたお墓も、植木など一切植えずに墓石と砂利のみ。死後の世界にたくさんのお金を使っているなぁ……と感心するほどの出来栄えです。雑草もこまめに取って、すごくキレイな状態に保っていました。

父が入った後は、息子として同じように保ってあげようと、ゴミや枯葉一つない、雑草も生えたらすぐに抜いて、霊園イチというほど、とてもキレイな状態に保っています。

しかし、両隣りのお墓は大変な状態になっていました。

「雑草伸び放題!」「植木延びっぱなし!」「お供えのお花は枯れて放置!」「中途半端に燃えているお線香が散乱!」

むむむぅーーー、無縁仏ですか??? と唸ってしまいたくなるくらいの惨状です。

他の家のお墓だし、汚れていても、荒れ放題でも良いんです。缶ビールや缶コーヒーが置きっぱなしで散乱していても良いんです。

うちのお墓に影響がなければ……。

もうお分かりでしょうか。

雑草は伸びきって、うちのお墓にかかりまくり。雑草の種がうちのお墓に飛び散っている。供えられた枯れた花びら、植木の落ちた葉が、うちのお墓に散乱している……。

生身の人間が目の前にいたら「入らないようにしてくれぃー!」と言い放ってしまいそうなほどです。

相手はお墓だし、故人だし、お墓参りのご家族に遭遇したとしても、鼻息荒くクレームをつける勇気も持ち合わせていません。亡くなった家族にお参りに来た人に、言えませんよね。

しかも、自宅とお墓がうちのように車で5分ほどのところにあるわけでもなく、なかなか来れないような遠いところかもしれませんし。

とにかく、セッセと「自分のお墓だけはチリ一つないほどキレイにしてやるー!」という勢いで、墓石を磨きまくり、チリ一つない状態を保ち続けました。

そんな気合の入ったお手入れを続けていたある日のことです。父がお墓に入って一年半ほど経ったでしょうか。

「あれ? やたらキレイになってる……」

左隣のお墓が、雑草だらけでお墓が隠れそうになっているくらいの状態から、雑草が全て抜かれて、顆粒の除草剤が撒かれたような跡がありました。

「お彼岸だし、そのタイミングで一気にやったというだけだよな」と思っていました。

そして、またある日のこと。父がお墓に入って二年半くらいほど経ったでしょうか。

「あれ? こちらもキレイになってる……」

今度は右隣のお墓が、雑草が全て抜かれて、伸び放題の植木がキレイに刈り込まれ、キレイなお供えの黄色いお花がお日様の光を受けてパッと明るくなっていました。

両隣りとも、「こちらが常に、異常といって良いほどキレイにしまくっているからかな。まぁ、一時的だろうな」と思っていました。

ところが、今は三年を過ぎたところですが、両隣りとも雑草や植木が伸びることはあっても、以前のように「無縁仏ですか?」というほどの状態はなくなっています。

きっと、うちがお彼岸などだけで手入れをしていなければ、同じように荒地になっていたでしょう。

「自分のお墓は変えられるけど、他人のお墓は変えられない」

そして、他人のお墓を非難することなく、自分のお墓をキレイにすることに集中したことで、周囲に良い影響が与えられたのだなと、今ではホッコリした穏やかな気持ちでお墓参りをすることができています。

これと同じように、

「自分は変えられるけど、他人は変えられない」

だからこそ、他人を変えようと相手にあれこれと期待するということを手放して、自分を良い方向へ向かうような取り組みに集中する。

すると、今すぐには変わらないかもしれないけれど、良い影響として波紋が広がるように伝播していくんだなぁ……としみじみ感じる出来事でした。