プロフィール

|カウンセラープロフィール


心理カウンセラー かみき はる

幼少時代   茨城県取手市生まれ。
虚弱体質で幼いころから病院通いで、後天的な肉体的欠損があったり手術したりなど後の悩みにつながる。話しかけられても言葉が出なかったり、相手の機嫌を損ねることが怖くて常に顔色をうかがうという超内向型の性格だった (HSP気質、機能不全家族)。

学生時代   転校をきっかけに学校で教師を中心としたイジメに遭うも、親からも不登校を受け入れられず、どんどん心が死んでいくような思いをする。外見も内面もコンプレックスの塊で、“落ち込み”思考の土台を作り上げる。

SE時代   環境に適応できず、新社会人で早くも、うつ状態に。過酷な激務、理想と現実のギャップ、目まぐるしく変化する毎日。話していてもその場で記憶が飛ぶ、2週間の便秘などに苦しみ、体調をくずして退職。

人事部時代   東証一部上場企業(現在では東証プライム)の人事に配属されるも、片道2時間の通勤、不規則な食事、不足する睡眠時間、膨大な残業量と、一人で背負う巨大な責任を負う業務に押しつぶされ、うつ状態に苦しむ。

旗艦店時代   上司からのパワハラを我慢していたことにより体調をくずす「重度のうつ病」と診断され、休職から退職へ。自分が悪いという“落ち込み”思考が加速していく。

心理学・心理療法を学ぶことで長年の生きづらさを克服
大学でモチベーションを中心とした心理学(行動科学)を学ぶ。
そして、内発的動機付け療法、認知行動療法、催眠療法、来談者中心療法などの心理療法やコーチング技術を学び、訓練し探求し続ける。

“落ち込み”思考から“幸せ”思考への転換ができるようになり、ついに、30年にわたる重度のうつ病 ・ パニックなどの心の病を克服。

10年のセッション経験をもとに、情緒的+論理的を組み合わせたカウンセリングを提供する 「心理カウンセリングルーム こころじかる」 を開業。
うつ、アダルトチルドレン、パニック障害、不登校、不眠症、トラウマなどの相談を受けている。

|悩み解決に欠かせないカウンセラーとの相性


心理カウンセリングでは、カウンセラーと相談していただくあなたの相性はとても大切なものです。

カウンセラーである私が、元々自分軸がなく他人に振り回され、“落ち込み”思考でしか生きられなかった私が、どのように克服し、その後、なぜカウンセラーになったのか。

ご興味のある方はぜひご覧ください。

↓ 詳しいプロフィールはこちら ↓



第一幕

超内向型の人見知りで常に顔色をうかがう子ども

「母乳で育てなかったから弱かったのかもね」

この世に生まれた瞬間は、髪の毛が多くて既に天然パーマ。看護師さんたちは「お人形さんみたい」と生まれてすぐの私を可愛がってくれていたようです。

幸先の良い人生のスタートを切ったように思えますが、そんな私の基本スペックは絵にかいたような虚弱体質。人生そううまくは行かないようです。

2歳のころから病院通いをしながら手術を経験して治る部分・治らない部分があったり、それにより肉体的欠損を負うなど、それがずっと隠れたコンプレックスになっています。

また、アレルギー性疾患で小児ぜんそくを発症したりと、常に命の危険ととなりあわせな幼児期でした。

性格は、超内向型の人見知り
病弱で発達が遅かったというのもあり、話しかけられても何を言って良いかわからず、口から言葉が全く出てきません

そして、相手の機嫌を損ねることが怖くて常に他人の顔色をうかがっているような子どもでした。

自分の特性として表れる「HSP(Highly Sensitive Person)ハイリー・センシティブ・パーソン)」=「生まれつき非常に感受性が強く敏感な気質もった人」も影響していました。

しかし、この時期は「自分で考えて悩む」というものもないし、セルフコントロールもできないほどの幼い時期です。
その分、人生の中でも、幼児期はまだ平安な時期だったのかもしれません



第二

生きづらさとコンプレックスの塊が人生を狂わせる


幼少時代:ほぼ母子家庭で母親の恐怖、優秀な兄と比較され、ACの一歩を踏み出す

家族構成は両親、兄と私の4人家族ですが、父は幼稚園のころより単身赴任でほとんど家にはいませんでした。

「ほぼ母子家庭」という状態。

たまに帰ってくる父に対して、どのようにふれあえば良いのか分からなかったほどです。

母は子育ての知識も少なく、情報も少ししかない。しかも、一人親状態で相談する人も身近にいない。
どのように育てて良いか分からなかったのでしょう。

子どもへの表現方法は、言葉の攻撃や手を出して教育していくことでした。

「子どもがいなければどんなに楽だったか」
「この子は神経質なのよ」
「本当の子じゃない」
「そんなこと言うなら置いてくよ」
「この子は特別支援学級に行くのかなと思った」

その攻撃でキズを負いながらも、そうされることが普通のことだと思っていました。

言葉で怒られることも「恐怖」です。
そんなに強くは叩かれなくても、キツツキのようにコツコツと木に穴を開けるように少しずつ「心が破壊されて、痛みを伴うもの」でした。

兄は勉強もでき、剣道や水泳などの習いごとでは優勝するほど優秀。

それに引きかえ自分はというと、同じ親から生まれてきたとは思えないほど逆な状況でした。

いちばんつらかったことは、学校も習いごとも兄とは常に同じところに通っていたことです。自宅、学校、習いごとの先でも常に比較されました。

自分が安全に過ごせる場所というものは、どこにもありませんでした。

比較され否定されるというのは非常につらく「こんな自分が存在していていいのだろうか?」という思いは、いつも心から離れません。

このように、他者からの否定という他人軸に振り回されながら、自己否定も不健全に育んでいくことになります。

・ 学校ではペアになるものでは「こんな自分と組んではいけない」と思いっきり引いて、最後に残ったクラスで嫌われていた同級生といつも組む。
・ 遠足では、「こんな自分は誰かと一緒に弁当なんて食べてはいけない」と、みんなと離れて一人で食べる。

気づけば幼稚園のころから「ぼっち」として生きていました。

今振り返ると、「毒親」であり「機能不全家族」であり、私自身の「アダルトチルドレン」の幕開けでした。

先天的に敏感な「HSP」と、幼いころから受けていく後天的なキズ「アダルトチルドレン」の一歩を踏み出していくのでした。


学生時代:転校先でのイジメをきっかけに心が死に、コンプレックスの塊に

小学校5年のときに「新築でマイホームを建てた」という親の都合で転校することになりました。

タイミングとして、2つ上の兄がちょうど中学校に上がる良いのも良い時期ということもありました。

私が環境の変化に適応しづらいということや、転校したくないという私の言葉などは通るはずもありません。

転校するということが分かる1年以上前から、不安で押しつぶされそうな毎日を過ごしていました。

さらに、転校先では今までない地獄が待っていました。

学力・運動能力が低スペックな小学生が、学力・運動能力主義の学校に転校となってしまいました。

学校での能力スペック
(×) 体育は虚弱体質で体が小さいこともあり、運動能力はすこぶる低い
(×) 国語は文章を読むときに、行を飛ばして読んでしまうほど文字が頭に入ってこない
(×) 算数は計算が遅く、文章題も何が書いてあるか意味が分からない
(×) 音楽は歌詞がまったく頭に残らない

(○) 音楽はメロディは憶えられ、感覚で楽器ができる
(○) 絵はまあまあ描ける
(○) 習字は親が書道の先生という影響でできた

転校先の小学校では教師が率先して、勉強ができる生徒、運動ができる生徒を優遇して、「天才」と呼ぶなどしていました。

その逆の生徒は、徹底的に攻撃されました。

要は、

担任が攻撃する   =   生徒たちへのイジメ OK のサイン

という構図が既にできあがっており、ひいき、体罰、イジメなど、何でもありな学校生活でした。

また、転校先では小学4・5・6年はクラス替えも担任も変わらないということで、5年から途中で入ってきた者は異物でしかありません。

そんな私は、苦労もなくターゲットに決定となります。

親に「イジメがあるので学校に行きたくない」と不登校を申し出ても、当時は

「学校の先生の言うことをちゃんと聞きなさい(先生は正義ということを信じて疑わない親世代)」
「学校に行かないのは不良だけ」
「ワガママを言うんじゃない」
「小学生が学校に行かないなんてあり得ない」
「悪いのは学校に行けないと思う本人」

という考えが当たりまえの時代でした。

・ 学校に行きたくないのは自分のワガママ
・ この苦しみが永遠に続き、一生抜け出せない
・ 先が見えず、そもそも先はない絶望感
・ 消えたいのに消えられない
・ 人生が良くなるなんて100%ない
・ 自分はダメな落ちこぼれ

どんどん心が死んでいくような思いでした。

学生の頃のアルバムを見返してみると「表情が全くなく、顔の筋肉が動いてない」というのが分かります。

こうして、自己肯定感が低く、外見、内面、能力など、全身コンプレックスの塊ができあがるのでした。

それでもここまで生きてこられたのは、徹底的に“落ち込む”という無意識の戦略で、下を向いて落ち込み、人となるべく関わらないようにする。

このような不健全ではあっても、“落ち込み”思考というものを使うことで、自分を守っていたからでした。


新人時代:理想と現実のギャップを埋められず新社会人なりたてで適応障害状態

ずっと他人の顔色をうかがい、“落ち込み”思考を習慣にしてきた人生でした。
そんな私でも就職をすることができました。

「社会人になったら飲み会などの会社外の付き合いも仕事のうち」とテレビなどで刷り込まれていたのでしょう。
頻繁に誘われるので、ここは一念発起して「学生時代とは全く違う人生を手に入れよう」と決意します。

本格的な仕事に入る前から、飲み会、カラオケなどの企画へ頻繁に参加して、コミュニケーション能力が高いという自分を「演出」していました。

超内向型人間ではなく、ポジティブな思考で明るい性格。そして、社交的でキラキラした人に変身を!

という理想をかかげながらも、現実は全く違います。

お酒は美味しく思えず、あの飲んだ直後に起こる、心臓の鼓動が早くなる感じが恐怖でしかない。
大人数のカラオケで盛り上がるのも苦手
みんなで、最高の笑顔で親指を立てながら写真を撮るのも、自分でない感じがしてゾワゾワします。

大人数で起こる心のザワザワ感、大きな音の不快感、複数人が同時で話すバラバラの会話についていけない、ムリやり注がされるお酒・・・
でも、「ノー」も言えない

「ムリだ・・・その場でいるだけで疲弊する・・・」

HSP気質があるため、精神的にも肉体的にもかなり息苦しい状況の中で、早くも適応障害状態に突入していきました。

「飲み会などの会社外の付き合いも仕事のうち」という呪縛が、「そんなこともできないなんて、自分は社会人失格なダメなやつなのでは・・・」と思い悩むようになっていきました。

この後も、理想と現実のギャップは計り知れないほど大きな影を落としていきます。


SE時代:うつ体験!手は震え、涙が勝手に流れ、記憶がなくなる

電気機器の製造メーカーで海外向けのシステムを担当することになりました。

「そもそも日本語もままならない私が海外向けのシステム……」大きな不安しかありません。期待はすでに吹っ飛んでいました。

膨大な量の英語のマニュアル。もちろん、日本語に訳されたマニュアルはありますが、「果たしてこれは日本語なのか?」という超直訳で、何度読み返しても理解ができない。

・ 理解できない、憶えられない、時間がかかるのは自分の能力のせい
・ 先輩に何度も質問するのは申し訳ない
・ できないのは自分の頑張りが足りないからだ

この後、自分ではコントロールできない巨大な渦に引き込まれていきます。

同僚もサービス残業、徹夜、休日出勤は当たり前で行っている中で、私は人の何十倍も努力をしないと普通の人に追いつかないという自覚を持っていました。

「朝起きる → 朝食をとる → 出勤 → 仕事 → デスク飯 → 仕事 → 夜遅くまで残業 → 退勤 → 夜食 → 風呂に入る → 寝る」

毎日この繰り返しで、疲弊しすぎていても夜も眠れなくなってくる。

「今日も苦しい一日が始まる」

出口が見えない不安に襲われ毎日が続き、“落ち込み”思考で憂鬱な日々を送っていました。

そんなある日、体の異変に気づくことになります。

手の震えが止まらなくなる
お通じが2週間ほど全く来ない
心臓の鼓動が早くなり、常に口が渇いている
何も起こっていないのに勝手に涙が流れる
口ぐせのように 「疲れた」を連発するほど疲弊しきっている
目の前で話したことが記憶がなく、記憶がないということも分からない

当時は今のように「うつ」という言葉は日常でも使われず、精神科や心療内科などに全く馴染みもない。
そもそも「うつ」と自分は全く結びつけて考えもしません。

内科へ行き検査をしてもらっても「特に異常は見当たりません」で終了でした。
病名がつかなければ病気ではないので、結局は行きたくないのは、自分が怠けたいと思っているからだという、自分自身に取ってはとてもつらい考えに行き着いてしまいます。

ある日、心も体も限界を超えてしまっていたので、上司に退職の決断を伝えました。

今振り返ると、症状からすると明らかに「うつ」「パニック」の状態となっていますが、内科に行ったため病名がつかない。

退職の理由が「自己都合のため」だけでは納得してもらえず、本社から来る上司から毎日のようにミーティングルームに連れ出され引き止められました。

しかし、辞めることに対して揺るがないことを理解すると、会社側から

「有給は使わせない」
「退職日当日まで休まず来い」
「体調が悪くても這ってでも来い」

という提示が出されて、退職日まで必死で出勤しました。

「全ては自分が悪い」
「できない自分はダメな人間だった」
「だから、言うことを聞くのは当たり前」

いくら時代とはいえ、これほど凝り固まった”落ち込み”思考から抜け出せないのは
幼い頃からずっと自分がない状態になりながら、他人軸で生きてきた人生

この時は気づきませんでしたが、後になってから、自分自身を満たすことがでず「うつ」が発生したというのは今になってようやく気づくことになります。


人事時代:うつ体験!電車の乗り入れを見ると体が勝手に・・・

SEを辞めた次の日には、すでに転職先の会社にいました。
社長と話したときに、普通に敬語を使って丁寧に話をしただけだったが、朝礼で紹介されたときに「みんなと違う言葉を使うけど、仲良くしてやってくれ」と紹介されました。

「やっぱり自分は他の人と比べて、何か違うのかな・・・」と思うようになり、また人の顔色をうかがいながらの不安な生活をするようになります。

他人の表情、言動に気を使い続けていると心も体も疲弊してきます。職場で行われるストレス検査では、毎回「燃え尽き症候群(バーンアウト)」と診断されましたが、「じゃあ、具体的にどうすればいいの?」ということが分からなかったので放置状態です。

ある日、部長に呼び出され「本社の人事で人を募集していたから推薦しておいた。頑張ってこい」と言われ、異動することになりました。

一部上場会社の人事といえば聞こえは良いかもしれませんが、社内でも残業が多いことで有名な部署でした。
本社、お膝元、総本山、能力が高く優秀な人ばかり。こんな自分が・・・と、不安や恐れ、自己肯定感の低さが顔を出します

自宅から本社まではドアツードアで約2時間の通勤時間で、朝5時おきで朝食をとる暇もなく家を出ます。
乗り継ぐ電車も5本なので、乗り換えを失敗しないように気が抜けません。
また、人が多くいる満員電車も苦手の一つで、ストレス状態も半端ではなく苦しいものでした。

朝から夜遅くまで残業の毎日で睡眠不足が続き、終電がなくなれば、会社近くのホテルに宿泊しながらも、何とか仕事をこなしていました。

ところがある日、今まで長年にわたって賞与計算をやっていたメンバーが異動となり、賞与計算の業務担当となってしまいました。

給与や賞与規定の改定のたびに増える、イレギュラー対応が多すぎて自動計算が難しいものでした。
人事の中で、誰も手を出したがらなかった複雑な賞与計算。

「賞与計算は合っているのが当然」
「従業員の生活がかかっている」

賞与計算の結果を提出してチェックしてもらうために説明をしようとします。
上司は最後に出た数字だけを見て、笑顔で「複雑すぎて、聞いても分からないから説明はいいよ。信じてるから!」のひと言だけで押印します。

常に「間違ってしまったら……」という恐怖と戦っていました
巨大なプレッシャーに押し潰されそうです。

これだけ複雑怪奇な仕組みで間違わないはずがないと思っているので、支給後もランダムに数人ずつチェックしていくと、誤支給に気づくことが少なくありません。

誤支給が発覚したら、あちらこちらにある事業所などに出向いて謝罪をしていきます。

上司を説得できないのは自分がダメだから
計算の誤りも気づかないのは能力と努力がまだ足りないから
誤った従業員に対して申し訳ない気持ちでいっぱい

“落ち込み”思考の毎日が繰り返されていきます。
次第に眠れなくなり、目の前が灰色の世界のようになっていました。

とてつもないプレッシャーの日々の中、駅のホームで乗り入れる電車を眺めていると、

「ここ(線路)に体を倒したら、この苦しみから楽になれるんだろうな」

と、頭をよぎりながら、体が勝手に前に倒れそうになります。
思考停止に近い状態になりつつあるその中でも思いとどまれたのは、その瞬間「家族の顔」が浮かんだからです。
かろうじて「家族の顔」が浮かび、ギリギリで「あの世行き」を回避していきます。

「このままの状態が続いたらどうなってしまうんだろう?」

そのような最悪の状況を数年間も思い浮かべながら、人事部長に状態を話して異動の直談判。
やっとのことで受け入れられました。

後に人事部長と話す機会があったときに、こんな言葉をかけられました。

「あのときのおまえ、表情も雰囲気も相当ひどい状態だったぞ」


店舗時代:うつ体験!“落ち込み”思考の悪循環から抜け出せない

次の異動先は店舗。
今までは社内の従業員をバックアップする間接部門ばかりで、お客様と直に接するのは初めてです。
新しい環境は、いつも恐怖と不安ですが、今までやってきたことと全く違うので興味はありました。

店舗といっても旗艦店なので、通常の店舗とは違い、フロア担当を持ちながら全体的な季節のフェア、イベントなどの企画しながら、運営をしていきます。

あいかわらず満員電車は嫌いでしたが、仕事はやりがいもあり、あっという間に数年が経ちました。

販売部門の所属も数年経っていくと上司が何人も変わっていきます。
ある時「機嫌に左右されやすい」上司Aさんになりました。

その時の気分によって話がコロコロと変わっていきます。

ある程度仕事は任されていたので、プロジェクトを進めていったときのこと。
「どうして勝手にやるの?」といきなり怒り出す事態が起こりました。

都度、報告や相談、指示を仰ぐことにしました。
すると「そんなことくらい自分で考えて動いて」と叱責されます。
一度や二度ではなく、毎日がこの繰り返しになり、次第にどうして良いか分からず八方塞がりに。

販売の部門長に相談したとき、逆に言われた言葉にショックを受けました。

「上司Aさんは、あなたが全然仕事をしないと言ってるよ」

裏でそんなことを言われているなんて想像もしていませんでした。
ことの顛末を説明して、その場では理解をしてもらえましたが、改善が全くされないまま。

さらに色々な事件が起こりながら、振り回され続け、月日が流れていきました。
問題が解決しないまま、その場所に居続けるというのは居心地も悪く落ち着かないものです。

「もしかして、これは自分が悪いのか」
「もしかして、これは自分の能力の問題なのか」

“落ち込み”思考が発動して、ぐるぐると考え続ける日々。
この状態がいつまで続くのか先の見えない苦しみ
完全に悪循環に入ってしまい、それが次第に表面化していきます。

感情が消えていくようになり、表情がなくなり、口数がなくなる
食欲もなくなり、コンビニで軽食程度くらいしか食べられなくなる
デスクに向かって仕事をしていたときに、突然、涙があふれ流れてくることも
ずっと仕事中でのことばかり浮かぶようになり、不眠や手の震えが段々大きくなってくる

協力してくれている広告代理店の社長が私を見かけたときに、「大丈夫?」とひとことかけてくれました。

「あ、これはもうだめだ。心も体も壊れた」

今回は、意外と自分では気づかず、他人の言葉によって初めて気づいた瞬間でした。

過去の「適応障害状態」や「うつの状態」などは、過去を振り返ったときに、「ああ、この状態に入っていたんだな」と後に理解していました。

会社でも「うつ」での休職者が増えてきたことで、うつ状態の人に接したりする機会が増え、本なども読んでいました。

そのため今回は、自分自身の状況を「あ、これはもうだめだ。心も体も壊れた」と理解することができました。

でも、「これくらいで・・・」という考えや、「これはただ、自分が弱いだけではないのか」「自分自身に問題があるのではないか」など、思い悩んでいました。

心療内科に行こうと決意をして、会社を休むときも、「会社に行かないようにして、一生懸命に休む。
自分は休まなければならない」と言い聞かせて、休むということに対しての罪悪感を何とか見えなくして、生まれて初めて心療内科の予約を入れました。

心理テストを受けた結果、医師から言われた言葉は、

「重度のうつ病ですね。もう会社へは行かないでください。診断書を書きますから」

診察と薬をもらって、すぐに「上司A」ではなく、部門長に直に電話で医師から言われた内容を話しました。
電話口で信じられない言葉を耳にしました。

「ああ、間に合いませんでしたか」

何か動いていたのか、動こうとしていたのか。でも報告した日から、あまりにも月日が経ちすぎているので、生返事ではないかと思って憤りはありつつも、どこか無感情の状態が静かに続いている感じでした。
とにかく今は何もかも考えずに、この苦しみの悪循環から抜け出したい思いで休職し、しばらくして退職を決断しました。



第三

心理療法で生きづらさを乗り越えられ、人生が変わってきた


心療内科での投薬での「うつ」治療をためす

重度のうつ病と診断されてから、指導されたことは「とにかく家でゆっくり療養」と「投薬治療」です。
薬は「抗うつ剤」と「入眠剤」の2種類が出されて飲み始めました。

診察では、毎回、普段の生活などを中心に聞かれて答えていきます。
不安なこと、パニック症状が出たこと、起き上がれないことなどを素直に話していきます。

薬も合う合わないがあるので、いろいろな種類の薬を試したり、効きが悪い場合は量が増えていきました。

投薬治療については薬を飲んでいるときの副作用、止めたときの離脱症状に苦しんだこと。
また、薬では根本的な問題解決にならないということを思っているので、個人的には疑問があり、否定的です。
(私は医師でも薬剤師でもないので、飲んだ方がいい・飲まない方がいいとは言及しない立場です)

私にとって投薬治療は、最初の安心感を得るには良いものでした。
しかし、根本治療という部分では、期待ができないものでした。

相変わらずの“落ち込み”思考は変わらず。
薬を飲み続けることで心療内科に自分の人生を振り回されているような気持ちになっていました。

こうして、次第に心療内科からは足が遠のいていくことになり、薬に頼らない別の方法を模索することにしました。


あきらめず心理学・心理療法を学び生きづらさの原因をさぐる日々

実際にカウンセリングを受けていくことで、
「このままの人生で終わっていいのか?」
「一生悩みの中にいて、うつ病やパニック障害を繰りかえすだけでいいのか?」
という思いが芽生えてきます。

そして、心についてもっと深く知りたいと思い、3年編入で大学に入学し、モチベーションを中心とした心理学(行動科学)を学びますが、心理学は「学問」なので、それだけでは満足できませんでした。

もっと実践を中心とした心理療法を学ぼうと、「内発的動機付けを使った療法」「認知行動療法」「催眠療法」「来談者中心療法」などを学び、訓練してきました。

その中で中で分かってきたことは、うつ病になる原因の一つとして、アダルトチルドレン(AC)や共依存、発達障害(LD(学習障害)、AD/HD(注意欠陥/多動性障害、広汎性発達障害(自閉症)など)の傾向があること。
これらは、複合的に重なり合うことも分かりました。

・ 同じ手順に異常なこだわりを持つ
・ スポーツなどのルールが憶えられない
・ 複数の情報がくると混乱する
・ 関係ない話題について言いたいことを一方的に話してしまう
・ 触られることが嫌い
・ 特に嗅覚が異常に敏感
・ 気が散りやすい
・ 集中が続かない
・ 行を飛ばして読んだり、同じ行を何回も読んでしまう
・ 話などの筋道を立てて話すのが苦手
・ 算数などの数字が苦手で時間や距離の感覚が理解しにくい

これらが自分自身に当てはまっていました。
だから学力が全く上がらない、だからとても生きづらかった。
今まで原因不明だった自分の生きづらさが、原因が理解できたことで安心感を得ることができました。

さらに、心理療法を実践することによって、“落ち込み”思考の悪循環から抜け出す「安心と自信」を身につけることができました。

一人でやるだけでなくカウンセリングに助けを求めたらさらに楽になった

生きづらさの一つとして、「〇〇ねばならない」という信念がありました。

「一人で何でもやらなければならない」
「一人でできなければならない」
「助けを借りずに、自立しなければならない」

私たちは客観的に見てもらうことで、大きな気づきを得ることができます。

カウンセリングを受けたことで、
「ああ、こういうふうに、カウンセリングで自分の考えのパターン外のことを気づくことができるんだな」
と思えたことで、一人でできないことも、助けを借りることで自分自身が成長できるということが分かりました。

このように考えられたことで、とても心が楽になり癒されることができました


もっと早くカウンセリングと心理療法に出会っていれば

実は、小学生のころにイジメにあった当時、こんなことを思っていました。

「よくは分からないけど、心理学というものが分かれば、今の状況を何とかできるのかな」

その頃に、心理療法を知っていれば、もっと早く楽になれたのに。
早く出会っていれば、うつ病で苦しい人生を続けなくても良かったのに。

このように思うたびに、本当に「時間というのは戻らないし貴重なもの」だと感じ入ります。

実際、ご相談していただいた方からも
「もっと早く、この心理療法を知っていれば」
というお声をいただきます。

アメリカでは日常で普通にカウンセリングを受ける土壌があります。
同じように日本でも、早くカウンセリングが気軽に受けられるようになって欲しいと活動しております。

私自身は、かなり遠回りしてしまいました。

私たちに与えられている時間は有限です

カウンセリングや心理療法は初めてという方
他のところでは効果がなかった方なども
全力でサポートさせていただきます。

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